Vol.31 こける服を捨てるべきか

こける服というのがある。

似合わなくて自分のテンションがあがらないとか、派手すぎてからまわっていてイケてない、という感じの「こける」じゃなくて、本当にばたんとこける服がある。

裾がすこしひろがっているパンツで、右足を出そうとしたら、左足の裾のあたりにつまさきが巻き込まれて、引き抜こうとしても布がからまってきて右足が出せず、右足にひっぱられるせいで左足もバランスを崩して、ばたんと派手にこけるのだ。なかなかの重みを伴ったいい歳のおばさんが。

こけて、両手をつく。両手から血を流す。痛い。膝も痛い。そのうえ恥ずかしい。こういう服は、捨てたほうがいいのだろうか。ということを、ここ数年悩んでいる。

たぶん、捨てたほうがいいのだろう。でも丈夫だし、洗濯してもしわにならないし、便利だし、何より気に入っている。「こける」ということを除けば、捨てる理由がないのだ。なんならもう一枚同じものが欲しいくらいなのだ。こけなければいいじゃないか。わたしが気をつければ、すべてが解決ではないか。

しかし「こけ」は突然にやってくるのだった。一度目は段差も何もないごく普通の住宅内の道を横断しようとしている時、バイクがゆるっと走ってきたから、すこし小走りになったらこけた。二度目は、家の階段で。あ、そういえば洗濯物……と考えごとをしながらのぼっている最中でこけた。二段ほど落ちた。

そうなのだ。こけると、わりと危ないのだ。百歩譲って、恥はもういい。よくはないけど、仕方ない。でも危ないのは、重大な問題である。今は、てのひらから血を流すぐらいですんでいるけれども、いつこけるか、わからないような服は、爆弾を抱えているようなもので、いつなんどき、大事になるかわからないではないか。やめるべきだ。うん、そうだ。

しかしこれがひとごとであれば、危ない服はやめておいたら、とあっさり言える。小学校で、「フード部分がひっかかると危ないのでパーカーは着てこないでください」と言われたら、杓子定規だなあと文句を言いつつも、一応着せないように心がける。高齢のご婦人がそんなことをぐだぐだ言っていたら、ひったくってでもやめさせて、そのかわり違う服をプレゼントしたい。でもなあ。気に入っているしなあ。こけることなんて、ごくまれだしなあ、とまだ捨てることができない。ひったっくてでもやめさせられてしまう高齢のご婦人に、自分がなったことを認めたくないという思いもあるのかもしれない。自分の服は、自分で決めたい。

こけると、ひとは急に老いる、と噂には聞いていたけれども、それはたぶん、こけてどこかの骨を折り、寝たきりになるとすべての筋力が弱るということであるのかもしれないが、精神的にも老いる、ということを実感する。こけるなんて幼稚園児みたいじゃないかと、自分にがっかりする。体力、筋力、運動神経能力、すべてが衰えていることにしょんぼりするのである。痛くて、手がひりひりして、家事がうまくできなくて、いらいらもする。

幼稚園児がこけるのは、まだ可愛い。でもいい歳のいい体重のおばさんが、びたんとこける。絵面もイタイ。恥、やはり重大な問題かもしれない。

やはり捨てるか。でもなあ。などと思っていたら、またこけた。近所の方と玄関先で喋っていて、じゃあまた、と方向転換しようとしてこけた。うわ、と声をあげてしまって恥ずかしい。大丈夫ですか、と声をかけてもらって、さらに恥ずかしい。両てのひらからまた血を出したが、今回は膝の痛みがなかなかひかない。裾をまくりあげ、中のレギンスもずりあげて膝を見たら、すりむいていた。こんなに何度もこけているのに、服の布は傷んでいる様子はなくて、まだあと十年ほど着れそうな状態を維持している。

まだ乗れる、といつまでも車に乗り続けて、家族を心配させる高齢者の気持ちは、こんな感じかもしれない。あ、それなら捨てないとだめだ、と今ようやく思いました。そして、自分のテンションがあがる、丈夫で可愛くこけない服を買うことを、自分に許します。

ライター:神 敦子

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