Vol.36 ミモザの日によせて

ミモザを育てている。
いつのまにか大きくなって、大きくなりすぎてかさばってすこし困っている。こんなに大きくなってくれなくていいんだけど、と思っていたせいか、数年前台風で根元からぽきんと折れて、そのまま枯れてしまった。風通しはよかったはずだけれども、幹が頑なで、風にしならなかったせいかもしれない。ご近所の、会ったら会釈ぐらいはするけれど、という娘さんが、「お母さん、大変。ミモザが」と悲しんでおられたとそのお母様から聞いて、楽しみにしてくださったのだと知った。
折れたミモザのあとをどうするかという話になって、流行りのスモークツリーだの清楚な木蓮だのあれこれ迷ったけれども、家族会議の結果、やはりミモザを植えることになった。迷っていたのはわたしだけで、子どもたちはミモザを愛しているようだった。絶対にミモザ、ミモザ以外はいやだという。
それで、またミモザを育てている。二代目ミモザも、にょきにょきとのびる。調べると、ミモザはすぐに大きくなるらしい。切れば切るほど大きくなるらしい。わかっているから、ことあるたびに、かなり大きく剪定しているのだけれども、それでもあっという間に放射状にのびて、わたしの背丈に足りなかったはずの二代目が、いつの間にか見上げるほどになっている。横を通るたびに、ひじがあたったり頭があたったり、あれ、こんなにも枝が張っていただろうかと成長に驚く。
ミモザのつぼみは長い。一年の半分ぐらいずっと、かたいつぼみをつけている。ちいさくてみどりいろのまるい小さな小さなぶどうのような花芽をつけて、そのつぼみを携えたまま冬を越えて、三月になった今ようやくすこしゆるんでいるような気がしないでもないけれど、やはりまだみどりいろをきゅっとかたくさせていて、本当にこれがあのふわふわした柔らかい黄色い花を咲かせるのだろうかと不安になる。もう三月だけど。そろそろ咲く準備に入ってもいいはずなんだけど。毎年不安になっている。けれども、毎年きちんと咲くのであった。黄色いぽわぽわした花が、南の、あるいは上の、日の当たりやすいところから順繰りに枝葉について、そんなところにも花芽があったのか、花芽の時期はあんなにも長くて、いつも見ていたように思ったけれども。毎年驚く。
ミモザの花が咲いたら、花仕事をする。といっても、わたしは専門家でもなんでもないので、ものすごく適当にそれをしても、誰にも咎められないのがいい。よく晴れた日を選ぶ。晴れた日が続いたあとの、晴れた日を選ぶ。なんとなく、花に雨の滴がないほうがいいような気がして。はしごも持ち出して、切って切って切って束ねる。それをひたすら繰り返す。黄色いぽわぽわは本当にかわいいのだけれど、そのままほったらかしにしておくと、春の霞のようなしとしと雨で茶色くなって、地面に落ちてどこかへ流れてしまうから、咲いてしばらくして、「よし、いまだ」という時にはさみを出す。
麻ひもで適当に束ねたものを、ご近所に配る。自転車のかごにいれて、あちこちのともだちにも配る。春を届けているような気持ちになれるのでひたすらに嬉しい。もらってくれたひとが、みんな、わあ、という顔になってくれるのが嬉しい。
小さいものは、それも束ねる。束を重ねて、自分用のリースにする。自分用なので、適当も適当、それでもミモザのリースをかざると、家に春がきたようで嬉しい。
もっと小さいものは、ちょっとだけドライにする。カードを作っているともだちに贈る。季節の葉っぱとか。布きれとか。そんなものと一緒に、カード作りの材料にしてもらう。
見上げると、ミモザにもう黄色い花はない。銀色かかった緑の葉が風にゆれているだけである。花芽はもちろんひとつもなくて、ちょきちょきと容赦なくずいぶんと大きく切られたせいで、三月、花終わりのミモザはびっくりするぐらい小さくなってしまうけれども、あっという間にのびることを知っている。ミモザは強い。可愛いけれどしたたかなのである。でももうちょっと、しなやかに風に流れたり揺れたりすることを許してもいいのに。ぽきんと折れないだろうかと台風の日にはハラハラするけれど。
春はくる。もうすぐ。
ライター:神 敦子
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