Vol.49 イチブンノイチ物語④ 私たちは、いつから自分を後回しにしたんだろう

気づけば私たちは、
いつの間にか
自分のことを後回しにするのが
当たり前になっている。

最初から、
そうしようと思っていたわけじゃない。

ただ、
目の前に
「選ばなければならない場面」が
何度も現れていただけだ。

産むか、産まないか。
子どもか、仕事か。
仕事を続けるか、辞めるか。
夫の仕事についていくか、ここに残るか。

振り返ってみると、
人生の節目で突きつけられる
こうした取捨択一の問いは、
ほとんどが女性に向けられていたように思う。

私はそれを、特別なことだとは感じてこなかった。

「そういうものだから」
「みんなそうしているから」

疑問に思う余地もなく、
当たり前のこととして
受け入れてきた。

でも今思えば、
それは本当に当たり前のことだったのだろうか。

誰かの人生や生活を支えるために、
自分の選択肢を狭めること。

どちらかを選ぶたびに、
もう一方を静かに手放していくこと。

それを
「母だから」
「妻だから」
「家庭があるから」
という言葉で
説明してきただけなのかもしれない。

自分を後回しにしてきた感覚は、
意志が弱かったからでも、
自分勝手になれなかったからでもない。

最初から、
そういう選択を
求められる立場にいた、
というだけの話なのだと思う。

だからこそ、
私たちは知らないうちに
自分の気持ちを
感じないようになる。

感じてしまうと、
選ばなかったほうの人生が
見えてしまうから。

「本当はどうしたかったのか」
その問いを持つこと自体が、
少し怖くなってしまう。

そうやって、
自分の声は
少しずつ遠ざかっていく。

でも、
後回しにされた気持ちは
消えるわけじゃない。

言葉にならない違和感として、
身体の感覚として、
ある日ふと
立ち止まらせる形で
私たちの前に現れる。

それは、
間違った選択をしたからでも、
努力が足りなかったからでもない。

ただ、
自分の人生を
自分で選んでいい、という感覚を
長いあいだ
使わずにきただけなのだと思う。

自分を大切にするというのは、
過去の選択を
否定することではない。

「今の私は、どう感じている?」
その問いを、
ようやく自分に向けていい、
という許可を出すこと。

答えが出なくてもいい。
迷ってもいい。

でも、
問いを持つことを
やめないでいる。

それだけで、
人生の重心は
少しずつ
自分のほうへ戻ってくる。

もし今、
「私、ずっと後回しだったかもしれない」
そう感じたなら。

それは、
責めるための気づきではなく、
これからの選択を
取り戻すための
静かな入口なのだと思う。

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