Vol.3 歯を折りました

歯を折った。自分で。
夜中、ものすごく近いところから、というか頭の中全体に響く感じで、「ぴきっ」という巨大な音がして目が覚めたのだけれど、傷みもかゆみも、体に全く異変は感じなくて、ああ、夢かあ、なんだかわからないけど怖かったあ、と寝なおした。
朝起きて、歯磨きをしたら、これから永久歯が生えてきます、という乳歯のように一本だけぐらぐらしていたのだった。永久歯が。
 
予約はしておりませんが、もう何時間でもわたしここで待ちますから、とほとんど泣きそうになりながら、行きつけの歯医者にかけこんで割り込んで診ていただいたら、ああこれは歯ぎしりですね、と先生にあっさり言われた。
「普段の噛みあわせではあたっていないんですけどねえ、寝ている時、無意識のうちに歯ぎしりで歯を当てていたんでしょうね。ほら、この折れ方、ぽっきり後ろから前に」
え、だって、先生、わたしずっと通ってましたけど、歯ぎしりしてるなんて、なんにも言われませんでした。いや、ぼくもわかりませんでしたってそんなものなのですか、歯医者さんて。でもいい先生なんですけど。

三十代になってから、急に歯が米粒大ぐらいのかけらであちこちからぽろぽろかけてきて、虫歯でもないのにどういうわけか、きっと元々、歯がもろい体質なんでしょう、妊娠出産で体質が変わることもありますよねって先生おっしゃってたじゃないですか。あれも全部歯ぎしりですか。まあ、わかりませんけど、歯ぎしりでしょう。わからないんですか。まあいいんですけど。いい先生なんですけど。

それで一本だけ差し歯にしました。
差し歯……。なんかいや……。
歯ぎしりで削られた短い犬歯に慣れていたせいか、突然立派に出っ張った人工犬歯が、主張してきてなんかいや。一本飛び出た犬歯のせいで、急にしゃべりにくくて、口の内側の皮が歯にひっかかって、しゃべるたびに唾液がとんで、それが光の加減なんかで見えるのがいや。光の加減で見えないときも、唾液がとんでるのかもと心配して、しゃべるのを自粛してしまう窮屈感もいや。

インプラントというのがあるのだけれど、一本数十万円もするらしくて、もう人生折り返したわたしの歯の一本にそんなにお金をつぎ込めなくて、我が家の予算委員会では、もっと優先すべき項目が多々あって、わたしの歯一本に数十万、それは無理。
ああ、差し歯。差し歯かあ。

というのが、半年前のできごとなのだけれども、なんと先日、また歯を折った。また自分で。

歯ぎしり防止用マウスピースを、たった一日つけ忘れて眠ったら、また夜中に「ぴきっ」と音がした。これはまさか、と飛び起き慌てて口の中に手を入れたら、例の差し歯がぐらぐらになっていたのだった。
ああ、歯の根っこが割れてますね。歯の根っこが割れたら、差し歯はできません。
 
それで、差し歯が入れ歯になりました。
入れ歯って……。
差し歯より、もっといや……。

先生は、「お入れ歯」って丁寧におっしゃるけれども、「お」をつけたぐらいではごまかされない、なんともいえない老齢感というか、情けない感というか、入れ歯って響きがなんかこう、もう、全然ときめかないというか。四十代にして突然老後がやってきた感じがあるというか。わたし、入れ歯になってさあ、と言ったときの、ともだちのなんともいえないせつない感がこちらをさらにせつなくさせるというか。せつながらないでほしい。もういっそ、笑ってほしい。いや、笑ってもらったけれども。その笑い方も、若干かわいた感じで、そりゃそうだよね、はっはっはーと歯切れよく笑えることではないよね、歳とると歯やら目やら髪やら、あちこちお金がかかるよね、健康って大事だね、とせつなくさせてむしろごめんね。

そして現在、日常は「歯抜けか、お入れ歯」、寝るときは「噛みあわせ矯正・歯ぎしり防止用マウスピース」、という生活をしておりますが、思った以上に、なんてことありません。
入れ歯がなんだ。噛めて喋れりゃあいいじゃないか。
そんなことを思いながらも、あの頭全体に響きわたる「ぴきっ」という音がおそろしくて、うたたねが気軽にできません。

電車の中で、うとうとまどろんだ日々が恋しい。

ライター:神 敦子

神敦子#note#
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