おとなの交換日記 エピソード1

ともちゃん

交換日記のお誘い、ありがとう!

そうだった、わたしたちママ友だったわ。

あの当時、すっごく緊張してた。子どもより、わたしが。

あんまり遠くない幼稚園がいい、とかいうテキトーな気持ちで入園を決めて。友達がいない、ガラケー使用で今ほど情報が入ってこなくて、ふたりめを三月に産んだばかり、そんな状態で幼稚園デビュー。ぎゃー。

そもそも、ママ友っていう響きが、おどろおどろしいなって思ってて。(ドラマのみすぎ?)

一番下の子の分も合わせると、わたしトータル9年ぐらいあの幼稚園にお世話になったわけだけれども、実際、たしかにいろんな保護者がいて、そりゃもう、あなたちょっと落ち着いて、ってお水のひとつでもおくちに含ませてあげなくちゃ、みたいな方もいらっしゃったりして。勉強になったわ。

でも、たのしい時間だった。本当に。

なあんだ、子どもを育てるって、そんなにも自由でおおらかなんだなって思えた。そう思える方々とたくさん会えた。先生も子どもたちも、保護者の方にも。(そういう話はまたいつか)

あとね。

みんな、はじめましてって自己紹介してすぐ、下の名前で呼び合いはじめたじゃない? あれもびっくりしたなあ。おとなになって、下の名前で呼ばれることになると思わなくて、ちょっとくすぐったかった。「あっちゃん」っていう響きが、懐かしくて、優しくて、自分もちょっとちいさい子どもに戻ったみたいな気持ちになったよ。

ママ友って、いろいろあるんだなあ。

我が家のワイルドすぎるガーデンにて。10年ぐらい前にホームセンターで買ったデラウェア。種があるけど、めちゃめちゃ甘い。

そうそう!

作家になりたい! 言った!! 

あれね、びっくりしたよ、わたしが!

わたしにとって、「書くこと」は特別なことではなくて。

生活の中の、たとえば朝起きたら顔を洗う、みたいな感じで日常のすぐそばにあって、それをひとに言う必要はないと、今も思っている。もしかしたら、ちょっと変なところもあるかもしれない、顔を塩で洗っている、ぐらいの。え、塩?みたいな。でも、そんなの、みんな何かしらあるよね。塩はないけど、米のとぎ汁で顔をすすぐことあるよ、みたいな。へー、ぐらいの相違というか。

だから、今もわたしが書いていることを知らないひともたくさんいて、それでいいと思っているし、「わたし、書いているんだよね」と打ち明けるのが「仲良しの証」とかも全然思ってなくて。朝起きたら顔洗う、とかわざわざ言わなくていいもんね、って感じなのよ。それなのに。なんで、ともちゃんにあのときすっと話したんだろうね。今も不思議。

お店も最初はね。え、ともちゃん、ネット販売から始めてみる、とかじゃないんだって思ったりしたよ。だって、高いやん。維持費が。しかも東京! 神保町!

それでも、絶対に対面がいいんだ、会って、手にとって、あれこれ一緒に喋るのがいいんだっていうともちゃんが熱くてびっくりした。あのとき、ともちゃんにはわたしには見えなかったものが、たぶん見えていたんだろうなあって思う。

AIの台頭で、いろんな仕事がなくなるっていうの、ずっと前から聞いたことがあるけれど。レジも配膳も予約電話も、いろんなところが無人で自動になっちゃって。便利だけどね。ネットでなんでも買えるしね。

でもやっぱり、本物の、しなやかで温かい人間の手がほしいこと、あるなあって今、すごく思う。しょんぼりしているときは、背中にひとの手をあててほしいっていうか。顔をみて。声を聞いて。ふとした間とか、言葉が重なってしまって、何かがゆるんで、ちょっと笑ってしまったりとか。予定調和でいかないところが、欲しくなったりするんだよね。

結局そこに戻っちゃう気がする。今の時代だからこそ、ひとと対面で会うこと、ひとを相手に声に出して話をすることに価値があるというか。

だから、ともちゃんが、実店舗にこだわりたいといったのも、なるほどなあって、あとになって、というか、時間がたつにつれ、思ったりする。

最近読み返している本たち。今ちょっと話題らしいドラマ「すいか」のシナリオ文庫。台詞のみならず、カッコの中もすてきなのです。

賞をいただいてね。大きくかわったことのひとつに、わたしが家で書くことを、家族が当たり前だと思ってくれた、というのがあるんよ。

パソコンを開いて、何かしら書いていても、誰からも何も言われない。あ、何か書いているんだね、ぐらい。スルーされる。それがね、すごく大きいし、ありがたい!

書くということは、わたしにとって、ずっと昔から変わらない作業なんだけれども、でもどこかで「お金にならないこと」「なんの生産性もないこと」をしている、という負い目があって。そんな暇があるならば、家をすみずみまできれいにして、ちょっと手のこんだ料理とか作れるよね、って思う。誰もそう言わないけど、わたしのなかの内なる「完璧家庭婦人」みたいな何かが囁いてくる。

その一方で、子どもが昼寝をしている時間、幼稚園、学校にいっている時間、そういう誰もいないひとりの時間を細切れに確保して、ちまちまと書くのももどかしくて。もっと自由にいつまでも好きなだけ書くことに集中していたいなって思うこともある。

ひとりの時間っていっても、その間に買い物も洗濯も掃除も、夕飯の仕込みもしないといけないわけでしょう。ああ、今日も何にも書けなかったって思う日もたくさんあって。茨木のり子先生に「初心消えかかるのをくらしのせいにするな」と怒られそうなんだけど(そういう詩がある)。

それがね、賞をいただいたことによって、「書く」ことを隠さなくてよくなって。家族がいる時間にも「書く」ということを許されるようになって。「書く」ことを負い目に思わなくてもよくなって。でもそれが本当にね、ありがたいんよね。「わたしが書くこと」が市民権を得たというか。

それと同時にね。へんだなあって思うんだよね。だって、していることは同じなのに。わたしの中で、顔を洗うっていう日々の作業自体はかわらないわけよ。もう何年も同じことをしているのよ。ほんと、地味な作業よ。

外からの評価。もしくは、それがお金に通じるということで、自分がしていることが社会的に「許された」ような気になったのかな。

「許す」って、誰が決めているんだろう、わたしは「許されていなかった」のかな、「許されていない」とどうして思っていたのかな、ということを思ったりする。

ともちゃん。

こういうの、わかってくれる?

ライター:神 敦子

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