Vol.32 地方の女子は残り物を食べる
うちの実家ではね、夕飯はお父さんにだけ一品多く出てくるの。サイコロステーキとか。まぐろのお刺身とか。それはお父さんだけが食べていいもので、お父さんが機嫌がよいときに、お前にもひとつあげるよって言ってくれるのが、わたしすごく楽しみだった。すごく嬉しかった。
というひとがいて、それを初めて聞いたとき衝撃だった。うちの実家で、そんなことが起こったことはなくて、父が食べるものは、体格の上で量が多いということはあっても、品数は全くかわらなかった。その先輩が、「わたしも大きくなったらそんなふうに、男の人をたてたい」と言うので、さらに衝撃をうけた。
さらにさらに。先輩の実家がある地域では、法事や盆や正月のあつまりで、女の人は食事の席に参加せず、台所で立ち働き続け、食事らしい食事といえば、残ったものを食べるしかないらしい。
「残ったものって何ですか。鍋のそこにあるくたくたの肉とかですか」と問えば、「え、男の人が食べ残したものだよ」と先輩は当然といったようすで言う。大皿のはしっこのにんじんとか。こんにゃくとか。
「そうしたら、男の人は気持ちよく働いて、女の人に優しくできるのよ」
なんですか、それ、なんなんですか、それ、だってそれじゃ女の人は、気持ちよく働けないじゃないですか、わあわあとわたしが騒いでいたら、先輩は、本当に心から不思議そうに「だから。女は働かなくていいのよ。産んで育てたらいいの」とにっこりしたので、む、と黙った。
ちなみに先輩は、わたしとひとつしか歳がかわらない。当時二十三歳あたりであったと思う。昭和ではない。西暦でいえば、2000年も越えたあたりのできごとである。2000年を越えたら、もう最近である(わたしにとっては)。
今もありますか。ありますよね。あるんですよ、本当に。なんでしょね、この後味の悪さ。女性本人がいいならいいじゃないか、と思えないこの感じ。産んで育てる、もしくは、ばりばり働く、の二択しかないんかい。それでもって、女性性をもって生まれてきたなら「産んで育てる」を選ぶべきだろうっていう強制感。
などというと、最近の若い女性はわがままで、本来女性が請け負うべき大仕事を放棄して、自己実現ばかりを追い求める、嘆かわしい、などと男性からのみならず、女性からも苦言を呈されたりするのだけれど、それはいけないことなのでしょうか。生を受けた瞬間から「産んで育てる性」と「働いてそれ(産んで育てる側の性)を支える性」とにくっつけられた性器によってかっきりとわけられているようにどういうわけかずっと思っていたけれども、「働く」も「産む」も「育てる」も全部同じように大切で、それを誰がどう担うか、性器によってわけなくてもよいではないかと思うのです。ねえ。
「働く」と「育てる」をやります、とか。「働く」からちょっと離れて「育てる」をしてみますとか。「育てる」が終わったので、「働く」に戻ります、とか。「働く」が続きましたので、少し「休む」をしますとか。いいじゃないですか、そういうの。もちろん「産む」「育てる」に専念するのもいい。それが許される社会であってほしい。
たしかに「産む」については、女の人しかできないような体のつくりになっているかもしれない。でもすべての女の人ができるわけじゃない。男の人は誰もできない。できるからってしなくちゃいけないわけじゃない。
ならば「わたし、産んで育てる性であるのに」などと思う必要はないんですよ。本当に全然ないんですよ。「産む」性ではなくて「産む」ひとがいるのだ、ぐらいのことだと思うのです。「産まない」ひともいていいのです。「働く」ひとや「育てる」ひとと同じように「産む」ひとがいて、その誰をも同じように大切にすればいいじゃないですか。そんでもって「働く」のも「育てる」のも「産む」のもエネルギーがいるので「休む」ことこそ大切にしてほしい。
休みましょう、みなさん。休まないと、「優しい」ひとになれないから。
そんなふうに捉えたら、とりあえずひとがすくない地方に赴いて孕んで産んで育てて根付いて、働く側の性を支えろ、金をやるから、などという殺伐とした発想にはならないのではないのかと思ったりするのです。
ライター:神 敦子
神敦子#note#
https://note.com/jinatsuko
ちょうど2000年頃の私は、「結婚するもの」「子供は産むもの」「子供ができたら仕事はそこそこ、家庭に入る」みたいな、漠然とした価値観を持っていて、その価値観通りの人生を歩んできてしまいました。
違う選択もあったのに、何となく世の中や近しい周りの人たちの価値観に流されてしまった。
そんな感覚です。
「働く」も「産む」も「育てる」も、年齢や性別や住んでる場所に関係なく、同じように大切にできる社会であってほしいなと思います。
そして「休む」こと、大事です!