Vol.29 不安がりたい脳を騙す
地域の自治会の役員になってしまった。それはいい。夏休みのラジオ体操で、はんこ係になってしまった。それもいい。久しぶりのラジオ体操が、しんどい。
ラジオ体操で、しんどくなるという時代が自分に来ることを、小学生の自分が予想しただろうか。ジャンプをするたびに身の重たさを感じ、首が思うようにまわらず(慣用句ではありません)、背中をぐんと反っているつもりなのに、がちがちに固まっていて、ただ上を見ているだけのひとになってしまい、軽やかに片足飛びを交互にしているつもりが、懐かしいひげダンスのような滑稽な動きになってしまうことを。
終わるとぜいぜいする。ぜいぜいしながら、はんこを押す。こんなんで体操になってるの、と言わんばかりに元気な小学生たちは、まだあと二十回は体操できそうな身軽さで、颯爽と帰っていく。
ところで、歳をとって、わかる、と思うことのひとつに「不安感」というものがある。不安感。一体、何が。何が不安なんだ。と若い頃は思っていたけれども、ただ不安なのである。何が。なんでもが。何か理由があるわけではない。唐突に「不安」が襲ってきて(そう、不安は襲ってくるのである)、大体はしばらくするとおさまってくるのだけれども、ひどいときは激しい動悸がして、手汗をかいて、言葉が出ない。パニックになるといってもいいかもしれない。
わたしの「不安」は、たいてい外出時に襲ってきた。道を歩いていて、「今、トイレに行きたくなったらどうしよう」というものが多かった。出かける前にトイレには行ったし、歩きはじめてまだ数分であっても、「今、トイレに行きたくなったらどうしよう」と突然に不安になった。大丈夫、気のせいだ。なぜなら、さっきトイレに行ったから。とおさまればよいけれども、さっきはさっきであって、今は今じゃないか、今、行きたくなったらどうしたらいいんだ、この、なにもない道の途中で、と不安がむくむくと膨れ上がるのだった。そうしたら、突然に心臓がばくばくと高まり、汗が背中を流れ、手が震える。もう、今すぐ、今すぐトイレに行かなくては、大変なことになるような気がしてくるのだ。それで、走って家に戻り、もしくはどこか近くの駅ビルなどのトイレを大急ぎで探して用を足すのだけれども、さして出ない。出ないけれども、座ったということに安心して不安は一応おさまる。ああよかった。やっぱりトイレに行ってよかったんだ。でもまた数分後にそれが襲ってくるとは限らない。怖い。もう家から出たくない。
心因性排尿障害、とでもいいのだろうか。
そんなふうに名前をつけてもよいのかもしれないけれども、排尿とは限らない気がする。閉じ込められたらどうしようとか。落ちたらどうしようとか。倒れたらどうしようとか。とにかく不安はくるのだった。こうなったらどうしよう、そうしたらこうなるかもしれない、これもできるかどうかわからない、できる気がしない。何か、自分がとても小さな世界におしこめられていくような気持ちになるのだった。でもいやなのだ。わたしは自由でいたいのだ。それなのに、不安は襲ってくる。
本当かどうか知らないけれども、心臓がどきどきに慣れてないと不安感が強くなるらしい。心拍をあげない淡々とした生活ばかりだと、たとえば初めての道で、ちょっと細い道で、暗い道で、エスカレーターの下りがちょっと流れがはやい気がして、ひとごみに疲れて、ひとに会って緊張して、そんなことでちょっと心拍数があがっちゃうような、そういう日常的な心臓のちょっとしたドキドキに対して、「お、これは超ドキドキだな」と脳が勝手に勘違いをして、「超ドキドキって、超不安じゃん」と勘違いが勘違いをうんでいくらしい。ほんまかいな。
だから、脳の勘違いをたださないといけないらしい。「これは不安じゃないですよ、よくあることでしょ。これぐらいのドキドキ、普段からあるでしょ」と教えてあげないといけないらしい。そのためには、心臓をときどきはドキドキさせなくてはいけないらしくて、だから、踏み台昇降をしている。え?
だから、踏み台昇降をしています。階段をのぼったりおりたりする地味なあれである。
ジョギングは、うっかり買い食いしてしまうので、控える。なわとびは、身が重たくてしんどすぎる。踏み台昇降は、段らしきものがひとつあればできる。それで家の階段で踏み台昇降をすることにした。好きなアーティストの音楽をかけて、一曲分のぼりおりする。調子がよかったら二曲、のぼりおりする。ぜいぜいするし、ドキドキする。なんならバクバクまでする。でもこうやって脳を騙しているのだうひひ、と思うと、なかなか楽しい。
ついでに、曲のあと、ぜいぜいしながら「ありがとー。みんなー、とっても楽しかったよー」と叫びながら、階段を冷ややかに通りすぎる家族に手を振ったりすると、自分のライブを終えたような感じがして愉快である。ラジオ体操より続けられるような気がする、そんな夏の終わりである。
ライター:神 敦子
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