Vol.35 あとになって痴漢だと知る

女性専用車両というものが導入された日のことを覚えている。それが、何年何月何日かという数字は覚えていないのだけれど、その朝、わたしは友達といつもの車両に乗って、それは女性専用車両と決められた隣の車両であって、隣までいけば女性専用車両というものらしいけれども別にいいか、ぐらいの気持ちでふたりして乗ったら、痴漢にあった。

痴漢といっても、あからさまになでたりさわったりするのではなくて、不自然に体をくっつけてくるというものだったから、なんだろう、そんなに混んでいるわけでもないのに、と数駅の間、ただ不思議だった。朝の電車であるので、たしかに混んではいるのだけれども、都心ではないので、ぐいぐいと押されることなどいつもならほとんどないのだった。

わたしの隣に立ったそのひとが、ぐいぐいともたれかかってくるので窮屈だなと思った。今日はそんなにも混んでいるのかな。女性専用車両のせいで、混雑に偏りが出る、不公平だと意見があったというのを知っていて、だからそのせいで隣の車両が混んでしまっているのかな。それで友達の方にすこし歩をすすめた。そうしたらそのひとも歩をすすめて、やはりぐいともたれかかってきた。あれ。このひとの向こう側は、そんなにも混んでいるのかなと思った。それでまた友達の方にすこし歩をすすめた。

気がついたら、わたしも友人も、そのひとも、最初に立っていた場所からずいぶんと動いていて、友人が「ね、隣の車両にいこ」と言ってくれたので、わたしたちは次の駅でその場所を離れた。あれ、痴漢だったね、と友人もわたしも言わなくて、そのことを話題にするのはなんだか恥ずかしいような気がした。それ以来、わたしと友人は女性専用車両に乗ることにした。

電車の中で初めて痴漢にあったとき、ぐりぐりと股間をおしつけられ続けて、びっくりして、でもどうしたらいいのかわからなくて、そうしたらすこし離れたところで「あれ、痴漢じゃないの」と誰かが誰かとひそひそ喋る声が聞こえて、なぜかわたしが恥ずかしくなった。わたしは。別に。恥ずかしくなる必要は全然ないことなのに。隣のその男性は、平然としているというのに。

痴漢らしい痴漢にあったといえば小学校のときで、夕方道を歩いていて、向こうから来たひとが「駅に行くにはどうしたらいいですか」と聞くので、このひと大人なのになんで知らないんだろうと思いつつも、一生懸命バス停までの行き方を説明していたら、その最中に突然お腹を殴られた。ぎゃあと叫んだら、そのひとは逃げたのだけれども、びっくりして怖くて泣き叫びながら家に帰った。近所のひとが外に出てきて、どうしたのと聞いてくれたけれども、返事もできないままよろめきながら歩いた。帰りついて泣きながら説明したら、母がなぜかすこし諦めたような顔で「ああ、それは痴漢よ」と言って、痴漢行為というものが自分の身に起こったということが猛烈に恥ずかしくて、違うもんと叫んで布団をかぶって泣いた。でもあれは確かに痴漢だったと思う。

歩いていたら足音が聞こえて、ふりかえろうとしたところを後ろから抱きつかれて、そのまま胸をわしづかみされたこともある。しゃがみこんで叫んだら知らない男が逃げていった。ああ、これは痴漢だともう自分でもわかったので、親には言わなかった。痴漢をされたということを、親に言うのは恥ずかしいと思った。

なぜ痴漢行為をされる方が、恥ずかしいと思うのだろうか。なぜわたしはあのとき、恥ずかしかったのだろうか。なぜ親に、ひとに言ってはいけないと思ったのだろうか。それを今も時々思い出して考える。

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