Vol.38 フジテレビと中居正広氏の問題における第三者委員会の調査報告書を読んだ

フジテレビと中居氏の問題における第三者委員会の調査報告書を読んだ。

報告書は291ページと膨大で、読むのに大変時間がかかるけれども、本事案について書かれた第三章と第四章、18ページから114ページまでだけでも、もし可能ならばぜひ読んでいただきたい。現在、フジテレビのサイトで公開されている。フジテレビがどこかの国のように黒塗りもせず、そしてごちゃごちゃ言わずにすんなりと全文をサイトで公開しているということに、まだここに良心が残っていたと思ったりする。当たり前といえば当たり前だけど。

報告書を読んだとき、クソがとか最低だなとか、そういうののしりの言葉をわたしは思わなかった。ああ、そういうことだったのかと答え合わせをしたように思ったのだった。

わたしが知っている、生きている世界では、被害者女性Aとか、被害者女性の体調とかメンタルをフォローし続けて心をいためる先輩女性Fとかばかりで、AとFの話をそっと聞いては、わかるよ、それは辛いよと一緒に激しく憤り叫び泣き、それにしたって一体どうしてこういうことがまかり通っているんだと言葉の通じないような向こう側の景色をただ遠く思うばかりであった。

そうか、そういうことだったんだな、と向こう側がくっきりと見えたようだった。どうしていつもこんなに簡単に、なかったことにされるんだろうと憤っていたけれども、違うのだ。なかったのだ。最初から、あっち側にこういうことは、元々存在さえしなかった。なかったのだから、問題意識をもてと言われても、何を問題とすればいいのか。困るじゃないか。それがくっきりとわかる資料であった。

誤解させたら申し訳ないとか。傷つけたのなら申し訳ないとか。お前、ふざけんなよ、という謝罪の言葉が出るのも仕方ないのかもしれなかった。だって、本当に。そこには何もなかったのだから。無、なのだから。

だからといって、あっち側がのんきに暮らしていたかというと、全然そういうわけではない。性被害を訴えたときは、知らん、男女のもつれやろと打ち捨てたあっち側だったけれど、被害者女性Aが心身に不調をきたして、自死の可能性があらわれたとき、あっち側は唐突におたおたする。それは困る。ひとの命は重いから、というのもあるかも(あってほしい)しれないけれど、会社から自殺者を出したら世間の聞こえが悪くなるから、そうしたら株価が落ちたりスポンサーが離れたり、会社が傾いたりするから。

週刊誌の記事に書かれそうになったときも、あっち側は大騒ぎになる。この書き方だったら、悪いのはうちの会社の子になるやん。悪いのは、うちじゃない。うちの会社の社員じゃない。そこは、きっちり主張しておかないとならん。

会社が傾いてもええやん、と思う、わたしは。そんなことよりひとの心が重要じゃないか。

あほか、ええわけないやん。会社が抱えている大事な社員たちが、露頭に迷うやん。それを守りたいんや。一人より大勢や。という大義名分の元、あっち側のひとたちは、ひそひそと活動する。情報共有をしたり、情報を止めたりする。昼に夜に分刻みで暗躍する。それはもう、神経をすり減らしたに違いなかった、ということが報告書からはうかがえるのである。

ストレスで眠れなくなって、食欲も落ちて、急激に痩せたりしたかもしれない。大丈夫、無理しないで、って家族だったら心配しそうなぐらいに、振り回されているのだった。ああ、大変。会社が抱えている社員大勢、の中に、会社の一体何人が入るのか知らないけれど、とにかく大変なのだった。廊下もちょっとは走っただろうなと思えるぐらいに大変だった。

そっち? そっちなの? と読みながら何度も思うが、どうしたってそっちなのだった。

そっち以外に何があるの? と無垢な瞳で真顔で問い返されそうなぐらいに、真面目に真摯にそっちの問題に向き合っているのだった、あっち側のひとたちは。心身すり減らして。おそらく目を充血させて。徹夜してこの「そっちの問題」に向きあってこられたのだろう。

ちなみに中居氏は、フジテレビの方ではないけれどもおそらく同じぐらい心身すり減らして、なんで、なんでこんなことにと大混乱しながらも真摯に、中居氏なりの「そっちの問題」に中居氏なりに向き合ってこられたことも報告書から伝わる。これも、そっち?と思う。でもそっちなのだ。そっちしかないのだ。そっちもこっちもない、ひとつしかない、問題は。そう思っているようなのだ。

わたしが思ったのは、あっち側の世界にも、「そうじゃないよ」と疑問を呈するひともたくさんいただろうということなのだった。

いやいや、きみたちが目を充血させて、廊下をちょっと走りながら真面目に取り組んでいる「そっちの問題」ですが、そもそもがおかしいで、根本的に間違っているで、と思ったひともたくさんいただろうということなのだ。

その中にいただろう多くの男性は、夜道を歩くことに抵抗もなく、好きな服を好きなように着ることができて、見知らぬひとに自宅を割り出されないように遠回りしてコンビニから帰るとか、やたらめったら愛想よくしないように努力するとか、そういうことを考えたことさえないだろう。だから被害者女性に、わかるよ、とはどうしたって言えない。わからないから。痴漢の冤罪に巻き込まれるのは心底怖いけれど、痴漢にあうかもしれない心配を本気でしたことはないから。

だけどあっち側に「俺ら、こっち側の人間だよな」と肩を組まれたら、いや違います、と言えなくてもちょっと顔をそむけたいひとは、たしかにいるのだと思ったのだ。

ちょっと顔をそむけるぐらい、なんてことないじゃないか、それぐらいでいいんだったら、ちょちょっとできるやないか、楽だよな、とこれを読む前は思っていた。いや、ちょっと顔をそむける、ぐらいの話じゃないのだろう、あっち側の世界は。

ちょっと顔をそむけたら、「お前、どっち側の人間だよ」とすごまれて、俺らの世界を守ろうとしないやつは敵だなと認定されて排除活動開始されて、もしくはおもちゃのように遊ばれて、ごみみたいにあしらわれて、生きにくくなったりしてるんじゃないのかなあと思うのだった。そうなるともう本当にみじめで、だからそうならないためには、顔をそむけたくても、はは、と笑うぐらいはしてしまって、ああ、笑ってしまったと心をいためて。性被害に気づいて一緒に声をあげたくともあげられなくて、どっちにもどこにもいづらくて生きづらくて、居場所はどこだよ、ああ、辛い。そんな事情があっち側はあっち側であるのかもしれないと思った。

ああ辛い。ああ悲しい。わたしが知っていたこっち側の景色も、知らなかったあっち側の景色も、報告書から鮮明に立ちのぼってきて読みながら本当にやりきれない思いだった。

でもこれは、フジテレビだけのことじゃない。わたしが知っているあそこでも、あそこでも、あそこでも、そういうことはあったのだ。ということは、たぶん、そっちでもそっちでもそっちらへんでもあることなのだ。会社の中だけじゃない。家の中でも。夫婦でも。親子でも。子ども同士の戯れに見える中でも。学校でも。友達でも。恋人同士でも。スーパーの、あるいは駅の、通りすがりのあのひととあのひとにも、あるかもしれないことなのだ。つまり、わたしたちの世界のことなのだ。

あっち側もこっち側も、わたしたちの世界のことで、だからぜひ知ってほしい。知ったからといって、どうしたらいいのかすぐには答えは出ないけれども、まずは知っていただきたい。どっちの世界のどっちの思いも。

それからこの調査報告書のすみずみにまで行き渡る第三者委員会の「これで終わらせたりしないからな」という恐ろしいまでの気迫を感じてほしい。法律の世界に女性もいてくれて本当によかった。とらちゃん、ありがとう。

ライター:神 敦子

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