Vol.2 もうそれを言えるけど

就職氷河期だった。
新卒用の釣り堀は用意されていたけれども、分厚い氷がはっていて、魚の影は全く見えず、それなのに「ずっとこれでやってきたから」といった具合に、当然のようにごく普通の釣竿を貸し出されただけだった。

内定釣は困難をきわめた。
インターンや資格などの強い装備を周到に準備してきたひと、コネとかツテとかいう別釣り堀をもっているひとなんかは、いつの間にかいなくなったけれども、大多数は新卒採用釣り堀で凍えながら、釣り糸をひらひら垂らしつづけていた。

そのひととは、面接で会った。
面接官だった。面接の数日後に不採用の通知をもらってがっかりしていたら、そのひとから電話があった。別枠で話をつけることができるから、一度会って仕事の話をしようというのだった。

あやしい、とともだちの誰もが言ったし、あやしい、とわたしだって思ったけれども、このままだと分厚い氷の上で凍死を待つだけであり、この極寒の釣り堀から脱出する何かが欲しい。なんでもいいからとにかく欲しい。
これこそ、わたしに縁遠かったコネというものじゃないのか。

呼び出されたのは、カウンターとソファと低いガラステーブルしかない高そうなバーで、そこでそのひとはオムレツとなんやかんやを頼んだ。
便宜上、そのひとを以下オムレツさんと呼びたい。

オムレツさんの話は、かつてこんな大きな仕事をしたという自慢とエロについてだった。ひとはSかMにわけられる、ぼくはMだ、という話になんと相槌をうつのが正解なのか全然わからず、「はあ」を連発した。適当さがばれるといけないから、真剣に「はあ」と言い重ねた。

きみはミニスカートをはくかと問われたので、はきません、と答えたら、膝上20センチのミニスカートをはくように求められた。
ひとは見られることを意識して初めて、自分を高めることができるというのだった。見られることを意識するというのが大事なのだ。オムレツさんはそんなことを延々と語った。
「……はあ、そうですか」
「エロは必要なんだよ。濡れ場をしていない女優は、結局売れないからね」
自分の濡れ場を世界に披露したわけでもないのに、得意げにオムレツさんが言う。
「一番は、吉永小百合。彼女の濡れ場は、すごいよ。どんなだと思う、何したと思う」
さあ言ってごらん、とオムレツさんは、真面目な顔で言った。「わかりません」「いや君はもうわかっているはずだ」「……はあ」「わかるでしょ。ひとりですること。ひとりでするんだよ。ひとりで」
オムレツさんは、絶対に話題を替えようとしなかった。どれだけ間をとろうとも、おしぼりを何回たたみなおそうとも、店員さんが皿をさげにきても、絶対に話を吉永小百合の濡れ場に戻した。わかるでしょ、ひとりで、ね、ひとりですること。
「……オナニーですか」
仕方なく答えたけれど、なぜこんなことを言わされているのだろう、なぜオムレツさんは、こんなにも嬉しそうなのだろう、ものすごくいやな気分だったことを、今でも思い出す。

オナニーという言葉を口にしたのは人生で初めてで、いやだなあ、恥ずかしいなあ、とわたしが思うことを、オムレツさんはわかっていて、だからこそわたしにそれを強要したのだとそれはすぐにわかったけれども、わたしに言わせて、だからなんだよ、とその時は思っていた。恥ずかしがる様子に性的興奮を得るひとがいる、ということを、想像さえしたことがなかった。

もしわたしが恥じらうことなく、ああ、オナニーですねと言えば、オムレツさんはがっかりしただろうし、その当時はなかった言葉だけれども、セルフプレジャーというポジティブな言葉への変換も、オムレツさんはつまらなく思っただろう。
オナニーという言葉の、ぬるっとした語感と背徳感と、それをいやいやわたしが口から発したことに、オムレツさんは興奮したに違いなかった。言わせたことで、支配したように思ったのかもしれなかった。

触られたわけではない。性行為を強要されたわけでもない。多少の抵抗はあるけれど、今ならそれを何回でも言える。でもわたしは二十年以上経った今も、あのときのわたしとオムレツさんのやりとりを思い出しては、生々しく苦く傷つくのだった。
意図しないところで、性的な何かが行き来したということがすごくいやだった。そんなつもりで行ったのではなかった。純粋に、仕事の話をするのだと甘っちょろく信じていた。甘っちょろいのか? だって仕事の話をしようと、オムレツさんは言ったではないか。

そこに赴いた時点で、多かれ少なかれ、性的なやりとりがあることを覚悟するべきだったと、ひとは言うだろうか。不採用の会社の面接官から個人的に連絡が入る時点で、もっと警戒するべきなのだろうか。仮にわたしが、男性性をもっていたとしても、やっぱり警戒するべきだと、みんな言っただろうか。
実際女性性をもっているのだから、それによって起こり得るリスクをもっと常に管理し続けるべきだと言われるだろうか。
そもそもオムレツさんは、わたしが女性だから連絡をしたのだと思うべきだったのか。連絡とってもらっただけ、ラッキーじゃんと思うべきか。触られるぐらいが通常で、触られなくてラッキーの極みじゃん、と喜ぶべきなのだろうか。

わたしがしつこく無神経にオムレツさんに連絡し続けたせいか、その数カ月後に、なんと本当にその会社で働くことになった。
必ずミニスカートを履いてくるようにと言われたので仕方なくミニスカートで出社したが、無論、誰もミニスカートなど履いていなかった。
わたしもすぐにぞろ長いスカートを履くようになり、時々しか出社しないオムレツさんにもその姿を見られたようだったけれども、何か言われたりすることは当然なかった。

それから半年もしないうちに、社員全員に給料が支払われなくなり、会社自体もどこかに消えてしまった。

ライター:神 敦子

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